【感想】タタール人の砂漠
※ネタバレありなので作品を先に読んで欲しいですが、
この記事を読んだ後でも作品を楽しめると思います。
夜な夜な少しずつ「タタール人の砂漠」を読んでいた。
この物語の主人公は
英雄的な夢を見ながら僻地の砦を守る軍人ジョヴァンニ・ドローゴである。
この砦には敵が攻めてきたことがない。
全体を通して荒涼とした風景と、だだっぴろいタタール人の砂漠、
無機質な砦での変化のない生活が描かれる。
その中で時折、ドローゴの心象風景であるのか、比喩的で幻想的な別の光景が浮かび上がる。
ジョヴァンニ・ドローゴは希望と幻想を抱き続け、この、何も起こらない砦で青春と人生をただ空費していく。
この物語を読むと自分がドローゴと同じように
僻地の砦に居座っているのではないだろうかと、不安と緊張が走る。
印象的だった心象風景を抜粋する。
(この部分を読んで焦ってしまった)
「道沿いの家々はたいてい窓を閉ざし、まれに見かける人々は陰鬱そうな身振りで彼に答える、いいことは後ろに、はるか後ろにあり、彼はそれに気づかずに、通りすぎてきたのだと。ああ、もう引き返すには遅すぎる、彼の後ろからは、おなじ幻想にかられて押しかけてくる大勢の人間の足音が轟き寄せてくるが、その群れはまだ彼の目には見えず、白い道の上にはあいかわらずひとけはない。」
この作品は人間の儚さや、人生や時間の不可逆性を主題にしていると思われるが、
それだけだろうか。
たしかに、物語を追って彼の成し遂げてきたことを数えると、
ドローゴの人生は失敗だったと言えるだろう。
しかしこの話を切なく、救いのない結末であると言い切ってしまうこともできそうにない。
耐えがたいほどの絶望の中で見られる人間の意思と希望。
物語の終わりに作者がそれを煌めかせてくる理由はなんだろう。
数十年待ち続け、ついに夢を叶えられず、年老い、役立たずとして砦から追い出されたドローゴ。
彼は最後に行きついた狭い部屋の中で孤独に、しかし勇敢に死を迎えようとした。
これには、生涯を通じて英雄的場面を夢見てきたドローゴの最後まで変わらなかった精神性が表れている。
物語の終わりのあたり、
ドローゴが死を明確に意識した辺りから少しだけ抜粋する。
「過去のさまざまな苦い出来事をたたえた井戸の中から、破れ去ってしまったさまざまな望みの中から、これまで蒙ってきたさまざまな底意地悪い仕打ちの中から、思いもよらなかったような力が湧き出てきた。ジョヴァンニ・ドローゴは、すっかり心安らいでいる自分にふと気づいて、えも言えぬ喜びを感じ、早くその試練に立ち向かいたいとさえ思った。人生からすべてを望むことなどできはしないだと? シメオーニよ、果たしてそうだろうか? これからこのドローゴがひとつ見せてやろうじゃあないか。」
「老いと病いに衰え切った、哀れなジョヴァンニ・ドローゴ少佐は、とてつもなく巨大な、黒々とした門に立ち向かっていった。すると、その扉が崩れ落ち、一筋の光の差し込む道が開けるのに気づいた。すると、砦の保陵の上で思い悩んだことも、荒涼とした北の砂漠をじっと窺ったことも、出世のためになめた苦い思いも、待ち続けることに費やした長い年月も、取るに足らぬことに思えた。」
たしかに、彼は時間を空費し、人生で輝かしいことは何も成さなかったかもしれない。
途中で引き返し、他の選択をした方が幸せだっただろう。
しかし、彼の内面の言葉を聞くと彼は成熟している。
誰に顧みられずとも気高く、彼の誇りを保ったまま生命の終わりに向かって進む。
外部的には理由が何も与えられない状況での人間の尊厳。
夢は叶わず、劇的な何かも起こらなかったかもしれないが、彼は生きてきた。
一般的に、ジョヴァンニ・ドローゴの人生は悲劇的に捉えられるだろう。
しかし地球上の多くの生命もまた、何か特別なことを成すことなく終わるのではないだろうか。
加えて、もし現在なんらかの成果や功績が得られていても、
死ぬ直前にそのことに価値を感じられる保証はない。
しかし、ここがこの物語の複雑なところだが、輝かしいことを何も成さないことが
即ち悲劇であるとはブッツァーティは表現していないように思う。
「タタール人の砂漠」は普遍的な人生を描いた話である。