休憩至上ism

よく勉強してよく休む

魔女の笑い声

上野のモネ展にふらっといってみたがダメだった.

入れなかった.人気がありすぎる.

そこで,近隣で開催されているキュビスム展へ.

 

チケットを購入して入ろうとすると,

「すみませんお客様,長い傘はそちらに預けてください」

後ろから声が聞こえた.注意されると同時に,

目が外界を見ることをやめ,視線が内面にすっと引きこもってしまう.

係員さんの顔や表情がよく分からない.

「すみません...預けてきます」そう答えたと思う.

 

とにかく傘立ての方へ歩こう...注意されてからここまでが1.5秒くらいだと思う.

しわがれた笑い声が聞こえてきた.前方すぐから.

至近距離,顔をあげればぶつかってしまいそうな距離.

私に向けて笑っているようだ.

何が起こったかよく分からなかったが,

シルエットが一瞬見える.魔女のような人型が見える.

しわがれ声は続いている.とても楽しそうに笑っている.

(楽しそうなのは良いことだ)と一瞬だけ感情のようなものが頭をよぎる.

視線が落ちてしまって魔女の全体を明確に捉えられなかった.

 

明確に捉えたかった...そう思いながら傘立てに傘を預けた.

まだ見ぬ植物学者

「このビル内で,フランスの植物学者パトリックブランの作品が見られると聞いたのですが」

客入りもまばらな金曜日のお昼頃,ひとりの男性が受付に現れた

 

このギャラリーでは現在インドの作家の作品を展示している

その作家について,ひととおり答えられるようにはしているものの,

ビル内の他の区画についてまで把握していない

 

「パトリックブランですか...? お調べしましょうか」

すぐには分からないという様子を見せてみる

だいたいの人は時間がかかりそうだと思うと去っていく

彼は立ち去らない

好奇心の強うそうなキラキラした目で成り行きを見ている

 

結局,従業員用のエレベータで一階に降り,

ビルの管理スタッフのところへ彼を連れて行った

そこで説明をバトンタッチしてもらった

スタッフは彼を外に連れ出し,どこかを指差している

私もついていき,側で見守った真冬だがいつもより少し暖かい

しばらく後,

彼は晴れ晴れとした笑顔でスタッフと私にお礼を言い,去っていく

 

日報で上司に報告したところ,

パトリックブランの作品は現在撤去されているようだ

彼はどこに向かって歩いて行ったのだろう

よい一日になったことを願う

 

ティータイムの白鳥

 

紅茶をいい加減に淹れることには慣れてきた

そこで,ちょっとレベルアップしてみたくなった

主にポットとティーカップを温めるところ

 

Ⅰ. 今日のおやつに合わせて茶葉を決定する.

今日のおやつはジンジャーパウンドケーキ,お茶はルフナに決定

Ⅱ. ティーポットとティーカップにポットのお湯を入れてあたためる

Ⅲ. 電子計りで茶葉を量る

Ⅳ. 茶葉に対して規定の量の水を鍋で沸騰させる

Ⅴ. おやつをオーブンであたためる

Ⅵ. おやつ用のお皿を用意する

Ⅶ. ティーポットに茶葉を入れて,

沸騰したお湯を高めの位置からそそぐ (茶葉のジャンピングを促す)

Ⅷ. もふもふしたコースターの上にティーポットを置き,ティージーを被せる

Ⅸ. 5分の砂時計をひっくり返す

Ⅹ. ティーカップをテーブルに運ぶ

Ⅺ. あたためたおやつをお皿に乗せ,テーブルに運ぶ

Ⅻ. 砂時計が落ちたらティータイムの始まり

 

ここまでやってみて気付いた

ここまで時間や量に気をつけて準備をすると,

ティータイムが始まる前にけっこう気が立ってしまっている

みんなお喋りしていないで,早く紅茶を飲んでほしい

パウンドケーキも冷めてしまったら,あたためた意味がないし......

 

というわけで,ちょっとおこり気味になってしまいました

水面下のバタ足が見えない優雅な白鳥になるにはまだ早いようです

 

 

【感想】タタール人の砂漠

※ネタバレありなので作品を先に読んで欲しいですが、

この記事を読んだ後でも作品を楽しめると思います。

 

夜な夜な少しずつ「タタール人の砂漠」を読んでいた。

 

この物語の主人公は

英雄的な夢を見ながら僻地の砦を守る軍人ジョヴァンニ・ドローゴである。

この砦には敵が攻めてきたことがない。

 

全体を通して荒涼とした風景と、だだっぴろいタタール人の砂漠、

無機質な砦での変化のない生活が描かれる。

その中で時折、ドローゴの心象風景であるのか、比喩的で幻想的な別の光景が浮かび上がる。

ジョヴァンニ・ドローゴは希望と幻想を抱き続け、この、何も起こらない砦で青春と人生をただ空費していく。

この物語を読むと自分がドローゴと同じように

僻地の砦に居座っているのではないだろうかと、不安と緊張が走る。

 

印象的だった心象風景を抜粋する。

(この部分を読んで焦ってしまった)

「道沿いの家々はたいてい窓を閉ざし、まれに見かける人々は陰鬱そうな身振りで彼に答える、いいことは後ろに、はるか後ろにあり、彼はそれに気づかずに、通りすぎてきたのだと。ああ、もう引き返すには遅すぎる、彼の後ろからは、おなじ幻想にかられて押しかけてくる大勢の人間の足音が轟き寄せてくるが、その群れはまだ彼の目には見えず、白い道の上にはあいかわらずひとけはない。」

 

この作品は人間の儚さや、人生や時間の不可逆性を主題にしていると思われるが、

それだけだろうか。

たしかに、物語を追って彼の成し遂げてきたことを数えると、

ドローゴの人生は失敗だったと言えるだろう。

しかしこの話を切なく、救いのない結末であると言い切ってしまうこともできそうにない。

耐えがたいほどの絶望の中で見られる人間の意思と希望。

物語の終わりに作者がそれを煌めかせてくる理由はなんだろう。

 

数十年待ち続け、ついに夢を叶えられず、年老い、役立たずとして砦から追い出されたドローゴ。

彼は最後に行きついた狭い部屋の中で孤独に、しかし勇敢に死を迎えようとした。

これには、生涯を通じて英雄的場面を夢見てきたドローゴの最後まで変わらなかった精神性が表れている。

 

物語の終わりのあたり、

ドローゴが死を明確に意識した辺りから少しだけ抜粋する。

「過去のさまざまな苦い出来事をたたえた井戸の中から、破れ去ってしまったさまざまな望みの中から、これまで蒙ってきたさまざまな底意地悪い仕打ちの中から、思いもよらなかったような力が湧き出てきた。ジョヴァンニ・ドローゴは、すっかり心安らいでいる自分にふと気づいて、えも言えぬ喜びを感じ、早くその試練に立ち向かいたいとさえ思った。人生からすべてを望むことなどできはしないだと? シメオーニよ、果たしてそうだろうか? これからこのドローゴがひとつ見せてやろうじゃあないか。」

 

「老いと病いに衰え切った、哀れなジョヴァンニ・ドローゴ少佐は、とてつもなく巨大な、黒々とした門に立ち向かっていった。すると、その扉が崩れ落ち、一筋の光の差し込む道が開けるのに気づいた。すると、砦の保陵の上で思い悩んだことも、荒涼とした北の砂漠をじっと窺ったことも、出世のためになめた苦い思いも、待ち続けることに費やした長い年月も、取るに足らぬことに思えた。」

 

たしかに、彼は時間を空費し、人生で輝かしいことは何も成さなかったかもしれない。

途中で引き返し、他の選択をした方が幸せだっただろう。

しかし、彼の内面の言葉を聞くと彼は成熟している。

誰に顧みられずとも気高く、彼の誇りを保ったまま生命の終わりに向かって進む。

外部的には理由が何も与えられない状況での人間の尊厳。

夢は叶わず、劇的な何かも起こらなかったかもしれないが、彼は生きてきた。

 

一般的に、ジョヴァンニ・ドローゴの人生は悲劇的に捉えられるだろう。

しかし地球上の多くの生命もまた、何か特別なことを成すことなく終わるのではないだろうか。

加えて、もし現在なんらかの成果や功績が得られていても、

死ぬ直前にそのことに価値を感じられる保証はない。

しかし、ここがこの物語の複雑なところだが、輝かしいことを何も成さないことが

即ち悲劇であるとはブッツァーティは表現していないように思う。

タタール人の砂漠」は普遍的な人生を描いた話である。

 

灼熱の浜離宮恩賜庭園

会社を公に早退して、浜離宮恩賜庭園までお散歩しました。

入社してすぐのころ、

退社後に寄ってみたいところを探すために

Google Mapを眺めている時に発見した場所です。

どうやら夕方に閉まってしまうお茶屋さんがあるようで、気になっていたのです。

 

 

灼熱の中、浜離宮恩賜庭園へ。

この庭園は中央区築地市場駅から徒歩10分ほどのところにあるので

まず間違えてふらっと辿り着くことはないと思います。とても暑い。

 

 

雲のない青空と容赦なく輝く太陽、のどかに広がる芝生。

お仕事の帰りですが、自然と心がのびのびします。

 

 

多くの庭園と同じように、池がありますがこちらの庭園の池の水は海水なのだそう。

鯉はいません。

代わりに海の魚がいるようで、ときどき元気なジャンプが見られます。

 

 

優雅な庭園風景に海水魚。初めてなのでちょっと頭が混乱します。

 

 

大きな池にかかる橋を進むと、中島の御茶屋さんに到着です。

 

 

平日の16時なので、このあたりの会社員はまだお仕事中のはずです。

海外からの観光客の方々が何組かみられました。

 

 

 

冷抹茶と和菓子のセットをいただくことにしました。

この日の季節のねりきりは「あさがお」。

 

 

 

涼しい室内から硝子越しに見る池のきらめきはまた格別です。

 

初ゴルフ、初野球

今年に入ってから、初ゴルフと初野球を経験しました。

初ゴルフは打ちっぱなしセンター、初野球はバッティングセンターです。

 

初ゴルフでは、ゴルフクラブに色々と種類があることを知りました。

どういうときにどういうもので打てばいいのでしょう。

軽そうに見える、小さめのもので打ちました。

 

何回もからぶりするのですが、その度に立つ位置を少しずつ調整します。

 

打つ時にいい音がするように頑張りました。

人生でもなかなかないくらい躍動的な時間でした。

 

 

初野球では、時速70キロメートルで飛んでくるボールを打ちました...打とうとしました。

ボールは見えるのですが、自分の振るバットがどこにあるのかいまいち見えない。勘で動くしかないので困りました。

 

私の人生の中で珍しいほど勇敢な雰囲気の写真です。

この初野球、

両親と東京の西の方に出かけてお蕎麦を食べた後になぜかとつぜん実行されました。

全員が未経験...なんだったのでしょう、この企画。

 

バンコク日記-ベンジャロン焼きティーカップハント-

 

2023年3月26日。

タイの滞在期間は2週間あるとはいえ、やりたいことや叶えたいことを前倒しでどんどん実現していくことにする。

お茶好きの筆者は「ベンジャロン焼きのティーカップを買って帰る」という使命を個人的に感じている。

週末マーケットでは目が効かず一旦見送ったベンジャロン焼きだが、今日は確実に獲得しようと思う。

地球の歩き方に載っていた「日本堂ジュエリー」と「タイイセキュウ」に行ってみようと思う。(タイイセキュウは閉まっていたので記事なし。)

 

乗り換えを調べると電車で行くのは徒歩の時間が長くくじけてしまった。初のGrabタクシーでバンコク市内の南の方へ。

日本の電車と同じくらいの料金でタクシーが使える。南の方にあるプロンポンやトンローは日本人が多く住むエリアで、バンコクの中でも便利な区画らしい。

 

ここが日本堂ジュエリー。日本人のオーナーが集めたタイの宝物がたくさん売られている。

 

こちらがベンジャロン焼きの一画。見ているだけて楽しい。細やかな、金を含む模様は全て手描きとのこと。

オーナーさんがカップを光に透かせて見せてくれた。良い陶器は持つと軽く、光りを透過するらしい。持つと軽いという特徴は、カップをたくさん使う上で大切だと筆者も思った。

 

ベンジャロン焼きにも現代的な柄が登場している。伝統的な紋様もあれば、ブーゲンビリア(花)をモチーフにしたものもある。

現代調のものも涼しげでものすごく可愛いのだが、来る前から決めていたので伝統的な模様のティーカップを中心に選ぶことにした。色々出して組み合わせを考えた。

組み合わせのアドバイスも受けた。ティーカップやソーサーを大量に購入する場合は色が揃っていると格好いいが、2客を選ぶ場合は色違いがおすすめとのこと。

 

伝統柄の中でも軽やかな雰囲気のある右のふたつを連れて帰ることにした。間違いなく自分にとっての良いお土産である。